メルマガ・広報誌

vol.230(8月20日)

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◎ 茂木外務大臣のパプアニューギニア(PNG)、カンボジア、ラオス、及びミャンマー訪問

 

(2020.8.11、 外務省プレスリリース)

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press6_000653.html

8月20日から8月25日まで、茂木敏充外務大臣は、パプアニューギニア及び

メコン3か国(カンボジア、ラオス、及びミャンマー)を訪問します。

1.    各訪問国においては、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けた協力、

国際社会及び地域の喫緊の課題である南シナ海情勢や、北朝鮮等、共通の関心事項について意見交換を行う予定であり、

これにより、今後の地域・国際場裏における一層緊密な連携を図ります。

 

2.    パプアニューギニアにおいては、

太平洋島嶼国地域の安定の要である同国との伝統的な友好協力関係の更なる推進や、

新型コロナウイルス感染症の影響を受けている同国経済の早期回復に向けた

協力等の推進に向けた意見交換を行う予定です。

 

3.    また、メコン3か国においては、人的往来の再開に向けた協力や、

新型コロナウイルス感染症対策を含む様々な協力の推進に向けた意見交換を行う予定です。

 

[参考]茂木外務大臣出張日程

 

8月20日 東京発

     ポートモレスビー(PNG)着

 

8月21日 政府要人との会談等

     ポートモレスビー発プノンペン(カンボジア)着

 

8月22日 政府要人との会談等

 

8月23日 プノンペン発ビエンチャン(ラオス)着

           政府要人との会談等

 

8月24日 ビエンチャン発ネーピードー(ミャンマー)着

     政府要人との会談等

 

8月25日 ネーピードー発

     東京着

 

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パプアニューギニア、華為建設のデータセンターに「深刻な欠陥」日本などが当初反対

(2020.8.12、 大紀元 )https://www.epochtimes.jp/p/2020/08/60767.html

 

 オーストラリア政府の最近の報告書によると、

「中国共産党と繋がりのある華為技術(ファーウェイ)がパプアニューギニアのために建設したデータセンターに、

重大なセキュリティ上の欠陥がある」という。

 

当初、関係国の忠告を聞き入れずファーウェイを採用することを決めた同国は、

オーストラリア政府に助けを求めている。

オーストラリア・ファイナンシャル・レビュー

(The Australian Financial Review、AFR)紙が8月11日、報じた。

 

 パプアニューギニア(以下PNG)は、政府文書を保管する「ポートモレスビー・データセンター」を

国内に構築するため、中国輸出入銀行から5300万ドルを借り入れ、2018年に運用を開始した。

 

 2年前、オーストラリア、日本、米国の反対を押し切ってPNGはファーウェイと組むことを決めた。

「サイバーセキュリティに関するオーストラリアや米国の見解がどうであれ、

中国とファーウェイを懸念するのは大国だけだ。

われわれには敵がいないから心配する必要はない」と同国は主張していた。

 

 AFR紙は「報告書によると、PNG政府のデータ全体を保管するポートモレスビー・データセンターでは、

時代遅れの暗号化ソフトウエアが使用されている。

ファイアウォールの設定も不十分のため、機密性の高い政府文書を保護する事ができず、

国家の安全が危険にさらされていることが判明した」と報道した。

 

 また、65ページにも及ぶ報告書では以下の事が指摘されている。

 

 「暗号化ソフトウエアは2016年にすでに失効しており

、暗号もネットワークセキュリティの専門家によってすでに解読されたことが判明した。

また、データセンター全体の設定が予期された設計と一致しなかったため、

多くのセキュリティ上の脆弱性が発生している。

たとえば、コアスイッチがファイアウォールの後ろにない。

それはつまり、内部セキュリティ設定ではハッカーを検知できない」

 

 また、運用と維持のための資金が不足しているため、データセンターはほとんどメンテナンスされていない。

政府部門のデータ移行は当初の計画通りに行えず、

ソフトウエアのライセンスの購入やバッテリーの交換も継続できない状況にある。

 

 現在、PNGはオーストラリア政府にデータセンターの再稼働を確保するための資金提供を要請しているが、

オーストラリア政府から承認を得ていない。

 

 

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◎ パプア、華為のデータセンター欠陥で返済拒む(2020.8.14、アジア経済ニュース)

https://www.nna.jp/news/show/2081179

 

 オーストラリア外務貿易省(DFAT)が助成する、

パプアニューギニアの国家サイバーセキュリティーセンターがまとめた報告によると、

パプア政府が中国の通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)から購入したデータセンターに重大な欠陥があり、

機密ファイルが漏えいする恐れがあるなどとして、センター建設のために借り入れた7,400万豪ドル(約56億9,800万円)について、

返済は不要との立場を示しているもようだ。オーストラリアン・ファイナンシャル・レビューが伝えた。

 

報告書は、データセンターで使用されている暗号化ソフトウエアが非常に古く、セキュリティーシステムが機能しておらず、

外部からの不正アクセスも察知できないと指摘。

データセンターを現代化するためには、全体を建て直す必要があるとしている。

 

一方、華為はデータセンターに十分なメンテナンスや運転の資金がないことから、

最近になって破綻した状態に陥ったと説明。報告書やパプア政府とは異なる見解を示した。

 

パプア政府は、データセンターを再建するため、オーストラリア政府に対し財政支援を求めていたが、

オーストラリア政府は今のところ、これを拒否している。

パプアのマシウ・コミュニケーション相は「買った商品が欠陥品であれば、返品した上で返金を受け取るべき」と述べ、

中国輸出入銀行から借り入れた負債について、返済の必要はないと強固な姿勢を示した。

 

 

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◎ 「戦友、何としても祖国に」=ニューギニア戦、遺骨収集求める―105歳の堀江さん

(2020.8.14、 自自通信) https://trafficnews.jp/photo/99264#photo

 

 太平洋戦争の激戦地、東部ニューギニア(現パプアニューギニア)での戦いは

「生きて帰れぬニューギニア」と例えられるほど苛烈を極めた。多くの遺骨が今も現地で眠る。

「頭に浮かぶのは戦死者の姿。遺骨を何としても持って帰りたい」。

105歳の元日本陸軍少佐堀江正夫さんは、遺骨収集事業を進め一人でも多くの戦友の帰国を訴える。

 

 堀江さんは1943年12月に物資輸送を行う潜水艦に乗ってニューギニア島北東部シオに上陸。

現地での作戦を担う第18軍参謀などを務めた。

 

 「極めて無鉄砲な戦い。大本営は何も分かっていなかった」。

ポートモレスビー攻略をはじめとする一連の戦いは、当初から補給体制が考えられておらず、

地形の把握すらできていなかったと振り返る。

 

 現地では制海権、制空権を失い補給路が断絶。仲間は食糧不足による飢えや感染症で次々と亡くなった。

堀江さんも赴任3カ月後にはマラリアにかかり、その後何度も感染した。

 

「食べられるものはトカゲでも何でも食べたが、どんどん兵力は減っていった」と語る。

 

 第18軍司令官の安達二十三中将は45年7月25日、戦力の限界から9月末に玉砕する命令を出した。

 

命令前後から部隊のあちこちで戦時中はやった歌謡曲「誰か故郷を想わざる」を歌う声が聞こえた。

 

「帰れる望みはなくなったが、みんなの頭にあったのは故郷だった」と堀江さん。

8月15日から3日後に終戦を知った。

 

 戦後は警察予備隊、保安隊を経て陸上自衛隊に入り、西部方面総監(陸将)で退官。

その後、参院議員として防衛問題に取り組み、国政を退いた後も「英霊にこたえる会」会長などとして

戦没者の慰霊や遺骨収集に携わってきた。

 

 厚生労働省によると、東部ニューギニアの戦没者は約12万7600人。

うち約7万6000柱の遺骨が残ったままだ。遺骨収集は国の事業として行われているが、

今年度は新型コロナウイルスの影響により実施できていない。

 

 「生き残った私が死んで、みんなのところに行ったときに

『堀江、お前は長生きをしたのに何をしていたんだ』と言われかねない」。

堀江さんは悲痛な思いを口にした。

 

 

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◎ 兄2人が戦死「青春もない短い生涯だった」 89歳女性、記憶書き残す

(2020.8.14、 神戸新聞) https://news.yahoo.co.jp/articles/47ee94ee135f563c518839b084c6a56087ff7794

「兄たちは国の犠牲になり、青春もない短い生涯を送った。戦争だけはしてはいけない」-。

兵庫県朝来市の浅田のぶ子さん(89)は太平洋戦争で兄2人を失った。もう1人の兄は旧ソ連のシベリアに抑留された。

終戦75年を迎える今年、戦争で引き裂かれた家族の悔しさを胸に、記憶を書き残し始めた。(竜門和諒)

 浅田さんは同市で、8人きょうだいの次女として生まれた。

長男中島頼男さんと次男貞夫さん、三男講之助さんの3人が陸軍兵士として召集された。

 

頼男さんは1942年8月、鳥取県の部隊に入隊。中国出征前に帰郷した際、「自転車に乗れるようなった」と甘えたのが最後で、

パプアニューギニアのニューブリテン島で戦死した。23歳だった。

貞夫さんは鉄道車掌として神戸車掌区で勤務。44年、姫路の部隊に入り、満州やフィリピンなどの戦地を転々とした。

「帰ったら助役の試験を受けたい」と語っていたが、

「召されゆく庭は何処(こ)か知らねども 我(わ)が身すでに靖国(やすくに)の花」。届いた手紙はこの辞世の句で始まっていた。

「戦場に立って、覚悟を決めたのだと思います」と浅田さん。

「父母より先立つことを許して下され」「自分の貯金も弟妹の教育費に充てて」「信(のぶ)子は良き日本女性として」-。

家族への思いがあふれていた。

 45年7月、フィリピンのバタン島で偵察に出掛け、2週間戻らなかったことで戦死とみなされた。

「あと少し早く終戦していれば。悔しくて悔しくて」。出征前に残した髪と爪で葬儀を行った。22歳だった。

   同年2月、講之助さんは満州へたち、終戦後はシベリアに2年間抑留された。

舞鶴港から復員した際は、「痩せて人相が変わって、最初は家族ですら分からなかった」という。

約10年前に亡くなったが、

「赤痢にかかりながら、病院で仲間の死体を片付ける作業をさせられた」と抑留生活の一部を話したことがあった。

戦後はフィリピンに遺骨収集に出掛けるなど、生涯戦争と向き合った。  

 

浅田さんは結婚し、子ども3人、孫6人、ひ孫3人に恵まれた。

家族には戦争の体験を進んで話さなかったが、講之助さんから戦時中の家族写真や手紙などを受け取り、

「何かを託されたような気がした。きょうだいで一人残った私が将来に伝えないと」と思いが変化した。

 

 「両親もきょうだいも私も、みんな戦争の犠牲者だったんです」。

兄のことを思うと涙がこぼれるが、記憶の継承を願い、少しずつ筆を進めている。

 

 

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◎ パプア従軍の手記公開 元通信兵が戦闘の惨状を克明に

 

(2020.8.15、 高知新聞) https://www.kochinews.co.jp/article/389823/

折り重なるように死んだ ■ 食料を争奪 ■ 地獄絵そのまま

 太平洋戦争に従軍した高知県宿毛市の男性の手記を、宿毛市の親族が本にして公開した。

通信兵だった男性は徴兵から戦場のパプアニューギニアでの日々、捕虜生活を経て高知に帰るまでの3年8カ月余りの記憶をたどり、

「戦争ほど残酷で悲惨なものはない」「戦争だけは絶対にしてはならない」と記す。

終戦から75年。親族は「多くの人に読んでもらいたい」と呼び掛けている。

 

 手記を残したのは、宿毛市中央2丁目出身の竹村政治(まさじ)さん=享年88。

 

1942年8月、四国配電(現・四国電力)に勤めていた27歳の時に召集され、陸軍の電信連隊に配属された。

冬の満州での訓練を経て、翌年パプアニューギニアのニューブリテン島へ。

この頃から日本軍は連合軍の反撃を受け、近隣のソロモン諸島からの撤退を始めていた。

 

竹村さんは、周辺の兵士を同島ラバウルに退却させるための通信連絡などに当たり、ジャングルに通信基地を設営。

前線の兵と共にラバウルへの帰還を目指した。

 

 手記では、疲労と栄養失調、空爆の中での退却の様子を詳細に記述。

飲み水を求めて着いた川で「折り重なるように死んでいった」仲間や「戦友同志が食料を争奪」する姿に、

「地獄絵そのままの修羅場」「残酷で悲惨な戦争に対する憎しみをまたしても呼び起こす」とつづる。

 

 8月15日、ラジオで終戦を知り「生きて帰れるという喜びがいっぱい」。

捕虜生活を経て、宿毛市に戻ったのは1946年5月。

家に入ると母親が「わあっと泣いた」「母の真剣な表情は頭にこびりついて離れない」と記した。

 

 追録も記載。捕虜生活で、オーストラリア人将校が

「戦争のために妻子とともに暮らせない こんな馬鹿なことはない」「戦争はもうこりごりだ」と語っていたと振り返り、

戦争とは何かを問うきっかけになったと書く。

 

 帰郷後、四国配電に復職した政治さん。退職後に「遺稿」として手記を執筆し、2004年に亡くなった。

 

 手記は次女がパソコンでA4判38ページに打ち直し親族に配布しており、

これを政治さんのおいで、宿毛市内の建設会社会長の竹村建司さん(79)が製本。

今回、「実際に戦争を体験した人の思いを知ってほしい」と宿毛市中央2丁目の坂本図書館に寄贈した。

 建司さんは「戦争は無益で、二度と起こしてはならないということを痛感する。

戦争のない平和な社会を」と願った。

 手記は坂本図書館のほか、高知新聞のウェブサイトで全文を公開している。(新妻亮太)

 

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◎ 太平洋の激戦地・ラバウルで戦没者追悼式典…現地日本人呼びかけで実現

(2020.8.15、 読売オンライン)

 https://www.yomiuri.co.jp/world/20200815-OYT1T50246/

 【ジャカルタ=一言剛之】第2次世界大戦時、日本軍の航空基地が置かれ、

太平洋の激戦地となったパプアニューギニアのラバウルで15日、戦没者を追悼する式典が開かれた。

新型コロナウイルスの影響で例年行っていた戦没者の遺骨収集事業などが延期される中、

慰霊の取り組みを続けようと現地在住の日本人らが呼びかけて実現した。

 

 在パプアニューギニア日本大使館によると、ラバウルで日本の終戦の日に式典が開かれるのは初めて。

式典にはラバウル市長ら約50人が出席し、

日本政府が1980年に建てた「南太平洋戦没者の碑」の前で黙とうをささげ、献花した。

 

 呼びかけ人の原田武彦さん(47)は「初めての式典を戦後75年の節目に開催することができた

。二度と戦争を繰り返してはならないという思いを、国や世代を超えて伝えたい」と述べ、

今後5年ごとの開催を目指す考えを示した。

 ラバウルは、周辺の制空権を巡って「搭乗員の墓場」と言われるほど激しい戦闘が繰り広げられた。

連合艦隊の山本五十六司令長官が戦死する直前まで指揮を執った地で、

漫画家の故・水木しげるさんも出征中に爆撃で左腕を失っている。

 

 

 

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◎ 負傷兵の最期の声、今も耳に 衛生兵の私がした「仕事」

  (2020.8.15、 朝日デジタル) https://www.asahi.com/articles/ASN8H5KL8N8HPTIL01X.html

 

 丸太の木を並べ、その上にヤシの葉を敷いた高床式の野戦病院。ベッドに横たわり、息絶える負傷兵。

 香川県三豊(みとよ)市に住む政本道一(まさもとみちかず)さん(99)の自宅には、

戦地の記憶が描かれた紙芝居が置かれている。

 

 政本さんは戦時中、東部ニューギニア(現パプアニューギニア)で負傷兵を救護した元陸軍の衛生兵だ。

趣味の絵手紙を元にした紙芝居のそばに腰掛け、ゆっくりと話し始めた。

 

 『野戦病院では、横におった兵士が死んだいうたら、すぐにその後に負傷者が入ってくる。

いかにようけ、死んだかわかりゃあせん。2日と生きとらんですよ。

もうとことんやられて、入ってきますけんな』

 1943年春、政本さんを乗せた輸送船が広島・宇品港を出港した。行き先を知らされずに上陸した先は、

約4500キロ離れた南方の島。死んでも帰れぬニューギニア――。当時、そう呼ばれたほどの激戦地だった。

 

 「殺してくれ!」

 そう叫んで暴れる負傷兵の体を、政本さんら5、6人で押さえつける。

軍医が銃弾を取り除こうと傷口を切開するが、麻酔薬は底を突いていた。

負傷兵は手術中に激痛で気を失った。

 

 戦況は悪化し、負傷兵が担架で次々運ばれてきた。

目玉が飛び出ていたり、手足がなかったり。

虫の息の兵士を前に、軍医は「もう駄目だ」とつぶやいた。

 

 政本さんの耳に残るのは、若い兵士たちの最期の言葉だ。政本さんにしがみつき、

涙を流しながら、こんな言葉を残して逝った。

 

 「お母さん、すまなんだ」「お母さん、助けて下さい」「お母さん、ありがとう」

 既婚の兵士たちの多くは妻や子の名前を呼んだ。

 

 彼らの手を握り、体を抱き、声をかけた。

「心配するな。必ずお前の言い分を家族に届けるから」

 『そう言うたら、安心して死んでいくんですよ。そのやりとりがもうな、涙が出ますよ。

わしは何遍泣いたか、わかりゃせん。それが衛生兵の仕事ですけんな』

 「家族にせめて届けられたら」。遺髪を切り、かばんに忍ばせた。

 

野戦病院で苦しむ負傷兵たち。そのなかに、政本さんの「親友」がいました。

しかし、その瞬間は訪れました。

 医薬品や食料が届かなくなり、病院を解体する日が来た。

上官からこんな命令が下りた。「患者を後方へ護送せよ。移動できない患者は自決せよ」

 

 

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◎ 戦後75年 南太平洋で死んだ父の謎を追う (2020.8.15、 東奧日報 ) https://news.goo.ne.jp/article/toon/region/toon-20200815175818.html

 

 「私にとって届かないものが二つある」。

父を戦争で亡くした青森県むつ市大畑町の元教師・佐藤ミドリさん(76)が語気を強めた。

 

 漁師だった父・正太郎さんは、陸軍の海上輸送を担う兵卒として2度目の召集を受け、

1944(昭和19)年10月、故郷から約5500キロ南にある南太平洋・ブーゲンビル島の宿営地で戦病死した。

31歳。遺骨は返らなかった。

 

 佐藤さんの手の届かないものとは、自らにとって未解決の問題を指す。

 一つは父の軍歴。県が保管する書類では、軍が44年5月、正太郎さんに対し「復帰(復員)下令」を出したことになっていた。

復員とは軍務を解くことも意味する。30年以上前、

県庁の一室でこの書類を目にした瞬間、佐藤さんは思わず叫び出しそうになった。

 

「復員」が命令された人間がなぜそのまま残されたのか。なぜ故国に戻らなかったのか。「どうしても解せない」

 

 佐藤さんが厚労省から受け取った資料では、正太郎さんは「交通路の確保・補修及び自活作業。

この間、軍令陸甲第48号による現地解除部隊に上陸隊の復員業務の処理及び編成装備替え」として、

現地に残留したことになっている。

 

 佐藤さんは「甲48号に何が書いてあったのか。でも国からは(甲48号が)残っていないと言われた。

何としても知りたい。執念です」と語る。

 

 問題のもう一つは、父が命を落とした地にたどり着けていないこと。

 戦後、パプアニューギニアに併合されたブーゲンビル島では、独立派と政府軍の内戦で混乱が続いた。

佐藤さんはこれまで2度、同島に渡ったが、父の没した場所に近づけずにいる。

「コロナがなければ、今年また行くつもりだった」と佐藤さんは言う。

 

 父に抱かれたり、あやされたりした記憶は一切ない。「まぶたの父」は残された写真や伝聞からの想像でしかない。

「せめて父が最期を迎えた地に立ちたい」。70代後半となった佐藤さんは体力の衰えを感じてもいる。

「元気なうちに」との思いは強い。

 父の死に向き合い、真相を追うのは小学生の時、父を戦地で見知った男性が家を訪ねて来たことが大きく影響する。

 

この男性は以前、父の遺品となった印鑑と当時の日本兵が「四銭(死線)を越える」の験担ぎで身に付けた五銭銅貨のお守りを届けてくれた。

男性から聞かされた言葉は耳に残った。「兵隊が死ぬと上官たちは喜んでいた。

彼らは(役得として)お供えのご飯を食べていた」

 「本当に少ないご飯を奪い合っていたということ。

食べた人は生き残り、食べられなかった人は生きられなかった」と佐藤さんは声を震わせた。

人倫が問われるような現実が横行した戦時下。理不尽がまかり通る軍隊という組織。幼心をえぐられた。

「なぜ、父は死ななければならなかったのか。しつこく追う」。戦争遺児となって76年。

佐藤さんは今も、もがいている。

 

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◎ 《戦後75年》全国戦没者追悼式 茨城県遺族、不戦訴え(2020.8.15、茨城新聞)

https://news.yahoo.co.jp/articles/d898f1b468161410eba04932d6cd360ecabe3f9c

「終戦の日」の15日、東京都千代田区の日本武道館で行われた政府主催の全国戦没者追悼式には、

茨城県からも遺族10人が出席した。戦後75年を迎えて経験者が減り続ける中、遺族は「絶対に戦争は起こしてならない」と不戦を訴える。

  式では、県遺族連合会副理事長の豊島寛一さん(75)=東海村=が本県代表で献花した。

  海上挺進基地第17大隊に所属した父保さんは1945年2月10日、フィリピン・ルソン島で敵の砲弾の破片が頭に当たり、戦死した。

28歳だった。当時、豊島さんは生後2カ月。実父の記憶はなく、写真で顔を確認しただけだ。

 

戦地にいる保さんに豊島さんの写真を送ったが、目にできたかは分からない。

小学校高学年ごろに父親の戦死を認識するようになった。「父親に会うため」(豊島さん)に遺族会の活動で2回、現地に足を運んだ。

 

終戦間際に生まれた豊島さんは、戦中を知る最も若い世代だ。経験者は減り続けている。

「戦争を知らない人たちが政治をする世の中になり、また争いが起きるのではないか」。

悲惨な記憶が薄らいでるように感じ、危機感を覚えている。 「世界の恒久平和」。

ただそれだけを願って、式壇に花を置いた。

新型コロナウイルスの影響で、例年約100人出席する本県遺族は今回、10人にとどまった

。守谷市の落合三恵子さん(79)は体調管理を徹底して参加した。

父親・英司さんはパプアニューギニアのニューブリテン島で病死した。37歳だった。

落合さんが1歳7カ月の時に出征し、英司さんの思い出は残っていない。ただ、今も恋しくなる。

追悼式に出ることで英司さんの魂に近づいた気持ちになる。今回で2度目の出席に「体が動くうちに追悼式に来たかった」と話した。

 

 

 

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◎ 新型コロナウイルスに関する注意喚起 (第 62 報)

(2020.8.13、在PNG日本国大使館)

 https://www.png.emb-japan.go.jp/files/100082377.pdf

 パプアニューギニアにお住まいの皆様及び渡航中又は渡航予定の皆様へ

  ●6日(木)、PNG 当局は、新たに 10 名の陽性が確認され、国内累計感染者数は

163 名に なったと発表しました。

当該 10 名の内訳は、南ハイランド州で1名(男性。帰省したポ

ートモレスビー総合病院の看護師の父親)、

ウェスタン州で4名(5日に陽性が確認され

た患者の濃厚接触者)、首都圏地区(NCD)で5名。

NCD5名のうち1名(62 才男性)は同6

日にポートモレスビー総合病院で亡くなったとのことです(コロナによる死亡3例目)。

 

 

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◎ 新型コロナウイルスに関する注意喚起 (第 63 報)

(2020.8.10、在PNG日本国大使館)

https://www.png.emb-japan.go.jp/files/100082379.pdf

パプアニューギニアにお住まいの皆様及び渡航中又は渡航予定の皆様へ

●PNG当局は、7日(金)に 25 名、9日(日)に 26 名の陽性が確認され、

国内累計が 214 名になったと発表しました。

7日に発表された 25 名の内1名はブーゲンビル(ポート モレスビーから移動した

22 才男性)、

残り 25 名は首都圏地区(NCD)で確認されたと のことです。

●マニング警察長官(指揮官)は、規制「No.3

国内渡航」を7日付(即日発効)で更新 し

国内便による州境の移動を禁止する旨発表しましたところ概要以下の通りです。

詳細 はPNG政府特設サイト(https://covid19.info.gov.pg/),又は

当館HP

(https://www.png.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html)で確認できますので

邦人 の皆様におかれてもご確認をお願いします。

<No. 国内渡航>

・何人も、指揮官の書面による許可無しに、州から州へフライトで移動してはならない。

 

但し、乗客無しのカーゴ便、医療搬送便は除く。

・指揮官の書面による指示がある場合を除き、徒歩、車両、船舶による州境の移動は制限

されない。

 

 

 

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◎ 新型コロナウイルスに関する注意喚起 (第64報)

(2020.8.11、在PNG日本国大使館)

https://www.png.emb-japan.go.jp/files/100082492.pdf

パプアニューギニアにお住まいの皆様及び渡航中又は渡航予定の皆様へ

●昨 10 日(月)、マラペ首相は概要以下の通り発表しました。

・9日(日)に確認された陽性患者 26 名の内訳は、

24 名が首都圏地区(NCD。Wanigela11 名、Pari1名、POM12 名)、

1名がモロベ州レイ(53 才女性、政府関係職員、豪州・中国 に渡航歴あり、7月

17 日にPNGに帰国)、

1名がニューアイルランド州 Lihir(30 才男 性、7月 30 日に POM から Lihir

入り、Newcrest 被雇用者、セントラル州出身)。

・学校は 13 日(木)から再開する。8月 28

日(金)までは保健省及び教育省が学校にマ スクを供給するが、

それ以降は保護者が子供のマスクに責任を有する。

・PMVは 12 日(水)から再開するが、1.5m の距離を維持する。運賃は 1.5

キナ。バス 停には軍・警察を配置する。

・マーケット又はショップ以外の公共の場での集会は最大 15 人以下とする。

 

 

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◎ 新型コロナウイルスに関する注意喚起 (第65報)

(2020.8.13、在PNG日本国大使館)

https://www.png.emb-japan.go.jp/files/100083179.pdf

パプアニューギニアにお住まいの皆様及び渡航中又は渡航予定の皆様へ

●昨 12 日(水)、PNG当局は 55 名の陽性患者を確認し、国内累計が 287

名になった と発表しました。

55 名のうち 18 名が首都圏地区(NCD)、37 名がウェスタン州で、

NCD の 18 名は Badili, Erima, Hohola, Tokarara, Kaugere, ATS, Sabama,

Wanigela(Koki), June Valley, Boroko の人々とのことです。

●マニング警察長官(指揮官)は、規制 No2.~No.11 を 12 日付で更新しました。

  No.11 は本 13 日(木)から、それ以外は 17

日(月)から有効です。詳細はPNG政府特設サイト

(https://covid19.info.gov.pg/)、又は当館HP(https://www.png.embjapan.go.jp/itprtop_ja/index.html)で確認できますので、

邦人の皆様におかれても ご確認をお願いします。

No.2 国際渡航

※PNG政府負担のPNG人用隔離宿舎から Crown Hotel を削除。

  No.3 国内渡航

  ※「指揮官の指示がない限り、国内便は制限されない」との文言を削除。

  No.4 各州当局における体制と権限

※変更無し。

  No.5 死者の埋葬

※変更無し。

  No.6 税関

  ※変更無し。

No.7 COVID-19 検査の実施

※変更無し。

No.8 COVID-19 検査の対象・報告

※変更無し。

No.9 スポーツ・宗教活動・集会等の制限

※NCD においては、引き続き、夜 10 時から朝5時まで外出禁止。

  ※引き続き、集会(gathering)は最大 50 人まで。

No.10 マスク着用義務

※変更無し。 No.11 ポートモレスビーにおける公共交通機関(NCD

及びセントラル州)【13 日(木) から有効】

※25~30 人乗りバスは 15 人まで搭乗可、その他は定員より5名以上少ない人数であ

れば運行可、と追記。

  ※全ての運転手と乗客はマスクを着用しなければならない、と追記。

 

 

 

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◎ 新型コロナウイルスに関する注意喚起 (第 66 報)

(2020.8.17、在PNG日本国大使館)

 https://www.png.emb-japan.go.jp/files/100084125.pdf

パプアニューギニアにお住まいの皆様及び渡航中又は渡航予定の皆様へ ●

PNG 当局は昨 16 日(日)、新たに 52 名(うち 38 名がウェスタン州の Ok Tedi

mine、

15 名 が首都圏地区(人数は発表のまま))の陽性が確認され、国内累計感染者数は

323 名になっ たと発表しました。

  ●また当局は、今回の 52 名の陽性は、

ポートモレスビーとブリスベンで検査された 403 件 の結果が 16

日に判明し確認されたものとのことです。

 

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