メルマガ・広報誌

vol.185(5月7日)

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◎ オウムアウア以前に恒星間天体が地球に衝突していた!?(ハーバード大学研究者)
(2019.4.23、ニコニコニュース) https://news.nicovideo.jp/watch/nw5194140
2017年、オウムアウアが太陽系に飛来したとき、それは史上初の恒星間天体と認定された。

 記録にも記憶にも残る出来事だったのだが、はたして本当に史上初だったのだろうか?
 少なくとも、ハーバード大学のアビ・ローブ氏らはそのことを疑っている。
彼らが『arxiv.org』で発表した未査読の論文では、
「2014年1月6日、オウムアウアより先に地球に飛来した恒星間天体があった」と主張されている。
 それによれば、「より小型の恒星間天体ならずっと豊富にあり、気が付けるくらい十分頻繁に地球と衝突している」らしい。

2014年に恒星間天体が地球に衝突
 最近「より小型の恒星間天体」が地球に衝突したかどうか調べるため、
ローブ氏らはNASA地球近傍天体研究センター(CNEOS)のデータを分析した。
 ある天体がある惑星系の重力を振り切り、そこから別の惑星系へ移動するためには、天体は高速で移動していなければならない。
そこでローブ氏らが探したのも、そうした高速で移動する天体だった。

 そして注目されたのが、2014年1月6日にパプアニューギニアのマヌス島付近に落下した隕石だ。

 大きさは幅0.9メートル程度だが、時速21万6000キロと「衝突前の日心速度が異常なまでに高速」だったことから、
太陽に縛られていないことが窺えた。
 シミュレーションで隕石のそれまでの軌道を計算してみると、
それが地球に到達するまで他の惑星と実質的な重力の相互作用がなかったことが判明。
つまり、それが太陽系外に起源を持つだろうことが示されていた。
 さらに、このほかにも2つほど、恒星間天体の可能性があるデータが発見されている。

1立方天文単位あたり100万個の恒星間天体が存在?
分析されたデータは30年分におよぶものである。
 ローブ氏らは、30年ごとに3つの恒星間天体らしきものが飛来していたと仮定したうえで、
銀河にそうした天体は1立方天文単位(地球と太陽との距離。
およそ1億5000万キロ)あたり100万個近く存在すると推定している。
 なんだか膨大な数が存在するように思える。
しかし惜しむらくは、それらのほとんどは小さすぎるか、遠すぎるかで検出が難しいことだ。
 その点、オウムアウアは大きさ、形状、小惑星であり彗星ではない(と推測される)ことも含め、
稀有な恒星間天体である。
 オウムアウアに似たものが毎年数回は地球の軌道を横切っているかもしれないが、
それを検出することは至難の業なのだ。

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◎ Working Together to Create Cleaner Cities and Provinces
(2019.4.23、 EMTV) https://emtv.com.pg/working-together-to-create-cleaner-cities-and-provinces/
The common sight of plastic, paper and aluminum wastes washed up on the beaches,
 thrown around in streets, public places and overloaded dump sites is an issue
that does not only pose a threat to the Environment but also to public health.

Phase Two of Japan's Technical Cooperation Project for the Promotion of Regional Initiative on Solid Waste Management
in Pacific Island Countries [J-PRISM II] tries to address this issue.

On 16 April, 2019, the Second Joint Coordinating Committee [JCC] Meeting for [J-PRISM II] was successfully held
at Laguna Hotel, Port Moresby.

 More than twenty stakeholder representatives from Urban Local Level Governments [ULLGs],
National Capital District Commission [NCDC], Conservation and Environment Protection Authority [CEPA],
 Climate Change Development Authority [CCDA], Department of National Planning and Monitoring [DNPM]
and JICA attended the meeting. For all JICA Technical Cooperation Projects,
JCCs are held at the discretion of the Project team.

JCC Meeting plays a vital role in providing all stakeholders with the opportunity
to continue revising the Project Design Matrix and Plan of Operation for the project.

At the JCC last week, Ms. Janet Haua, Project Coordinator, Waste Management Division, NCDC,
 presided over the meeting. Mr. John Michael, Director of Environment Protection Division,
CEPA gave opening remark while Dr. Frank Griffin of UPNG gave the Keynote speech.

J-PRISM II is a region-wide project that targets human and institutional capacity
 base for sustainable Solid Waste Management (SWM) in the Pacific region.

J-PRISM II thrives on the Cleaner Pacific Strategy 2025, a strategic document
that aims encourage small island Pacific Island Countries tackle the issue of waste management
whilst at the same time mitigating the effects of climate change.

CEPA, NCDC and DNPM will work together with JICA in implementing J-PRISM II in PNG.

JPRISM II aims to strengthen Institutional capacity for SWM at the national
and provincial levels through the following outputs:

1. J-PRISM II will provide lessons that should serve as valuable recommendations
for CEPA to factor into CEPA's newly established National Waste Polity Strategy, and Action Plan,
 especially with regard to Solid Waste Management.

2. Introduce Solid Waste Management models to the pilot Urban Local Level Governments of
Alotau, Goroka, Lae and Kokopo.

3. Implement J-PRISM II as per the NCD Waste Management Plan 2016 - 2025.
Amidst various discussions around the challenges in the course of implementing JPRISM I,
the goal of the JCC meeting was to endorse or agree on the modification of the Project Design Matrix (PDM)
and Plan of Operation (PO) for the period 2017 - 2022.
PNG side (CEPA, NCDC and DNPM) and JICA mutually agreed to progress each output
under the revised PDM during the second JCC Meeting for J-PRISM II Project.
 Therefore, after the successful implementation of J-PRISM I in 2007,
JPRISM will now proceed into its Phase Two.
Source: Japan International Cooperation Agency (JICA)

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◎ ニューギニア航空、5月7日からキエタ発着の国内2路線を運航再開 

ニューギニア航空は2019年5月7日(火)から、パプアニューギニア国内線のポートモレスビー/キエタ線、
キエタ/ブカ線の運航を再開します。

これらの路線は、キエタ・アロパ空港に設置された進入角指示灯(PAPI)に電力を供給するソーラーパネルの盗難と撤去作業により、
2019年2月12日(火)から運航を停止していました。

ポートモレスビー/キエタ線は、ポートモレスビー発が火曜、キエタ発が金曜の週1便で、
往路のポートモレスビー発PX262便が8時45分、キエタ着11時35分、復路のキエタ発PX263便は14時35分、
ポートモレスビー着15時15分で運航されます。機材はFokker 100を使用します。

キエタ/ブカ線は、キエタ発が火曜、ブカ発が金曜の週1便で、往路のキエタ発PX262便が12時5分、
ブカ着12時35分、復路のブカ発PX263便は13時35分、キエタ着14時5分で運航されます。
機材はFokker 100を使用します。

■5月末までの運航スケジュール
・ポートモレスビー/キエタ線
   PX262便 ポートモレスビー 08:45 / キエタ 11:35 (火)
   PX263便 キエタ 14:35 / ポートモレスビー 15:15 (金)
・キエタ/ブカ線
   PX262便 キエタ 12:05 / ブカ 12:35 (火)
   PX263便 ブカ 13:35 / キエタ 14:05 (金)

期日: 2019/05/07から

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◎ 【アジアの本棚】『没落の東京マーケット ──衰退の先に見えるもの』
(2019.4.26、アジア経済ニュース)
https://www.nna.jp/news/show/1896638
■国際金融市場で敗れた日本への警世の書

私は1994年に日本銀行の担当記者だった。
株や不動産のバブル崩壊はすでに始まっていたが、
大手証券や長期信用銀行の破綻といった大ショックはまだ数年先の話で、
今思えば「嵐の前の静けさ」のような時期ではあった。
個人的には翌年に香港への赴任を控えており、「国際金融センターを目指す東京の将来に陰りが出てきた」
というトーンの記事も書いたが、銀行関係者から
「アジアの大手行でも時価総額は日本の都銀と比べると下の方です」と聞かされたのを覚えている。
まだまだ「日本は大したもの」だった。

そのころを記憶している一人として本書を読むと、
日本の金融業の地盤沈下の深刻さが改めて身に染みる。
外為市場(取引高)では日本は89年に米英に次ぐ世界3位だったが、
2013年以降シンガポール、香港に次々と抜かれ、16年には世界5位、アジアでも3位に転落している。
株式市場売買高でも、03年に東京証券取引所は世界3位だったが、17年には日本取引所の売買高は中国の深セン、
上海より下位の6位に後退。
中国の両取引所の合計売買高は日本の約3倍。
国際化の指標になっている外国企業の上場数では、
首位のニューヨーク証取が495社なのに、日本はわずか6社。
5位のシンガポールと比べても40分の1以下。
日本のライバルはパプアニューギニアだという。
このほか、デリバティブや国債、商品取引などでも日本の没落は際立っており、
外国金融機関の東京撤退が続出するのも無理はない。
■復興の道を探るための現状認識

問題はなぜこうなったかだ。筆者は、金融当局の見通しの甘さ、巨額の資産を誇っていた生命保険や邦銀の衰退、
筋の悪い構想に執着した歴代都知事らの失敗、
欧米が金融革新を進めた時期にバブルの後始末に追われていた不運─など複合的な要因を挙げているが、
日本が外為市場のトッププレーヤーだった当時も、
邦銀の取引は常に円中心で「グローバルに多通貨を扱うノウハウも部隊もなかった」と冷徹に分析している。
いまの状況を招いたのは、日本社会に深く根差した「内向きの発想」にも一因があるということだ。
筆者はまた、アベノミクスを支えてきた黒田日銀の「異次元金融緩和」による徹底した低金利の継続が、
銀行の収益を圧迫し、マーケットも弱体化したとして、
「成長の芽をどんどん摘み取っているようにみえる」と批判している。
では日本の行く末に希望はあるのか? 
日本には米国や中国のようにベンチャーで成功した大富豪も少ないのだが、
本書でも指摘しているように「小金持ち」はまだまだ多い。だが、
「外から資金を集めようというマインドが全くなく」
「国内の貯蓄プールにだけ注目して市場を活性化」しようというこれまでの政府や業界のやり方ではダメで
アジアマネーなどを積極的に取り込んでいかないと、各国と対抗できないと提言している。
同時に、日本は教育などの面でも世界から取り残されつつあるとして、
かつての海洋覇権国でいまは欧州の小国になっているポルトガルの姿と重ね合わせ、
「残された時間は長くない」と警告する。読んでいて明るい気分にはならないが、
だからこその「警世の書」といえる。
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『没落の東京マーケット──衰退の先に見えるもの』
太田康夫 著 日本経済新聞出版社
2018年3月発行


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◎習近平「一帯一路」大演説で再び見せた中華覇権確立への執念 (2019.4.30、週刊現代)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64400
腐っても習近平
「腐っても鯛」という言葉がある。いくら貿易戦争でトランプ政権に叩かれようが、
中国経済に翳りが出ようが、やはり「腐っても習近平」なのである。
習近平主席は、4月26日午前9時45分(北京時間)、
北京のオリンピック公園に隣接した国際会議センター4階にある大会議室の壇上に立った。
「第2回『一帯一路』国際協力サミット・フォーラム」の開幕式の基調演説を行ったのだ。
そこは「大会議室」という名前だが、6400㎡もあり、収容人数は5000人。
37人の国家元首クラスを含む150ヵ国から来たVIPたちを睥睨する圧倒的な存在感だった。
中国や海外メディアの取材記者は4100人に膨れ上がったため、ごく一部しか入場できなかった。

中央広播電視総台(中国中央テレビ)の画面が捉えた最前列のVIPたちは、計40人に上った。
具体的には、ロシアのプーチン大統領を始め、国名のABC順に、アゼルバイジャンのアリエフ大統領、
ベラルーシのルカシェンコ大統領、ブルネイのハサナル国王、チリのピニェラ大統領、
キプロスのアナスタシアディス大統領、チェコのゼマン大統領、ジプチのゲレ大統領、
エジプトのシシ大統領、カザフスタンのナザルバエフ大統領、ケニアのケニヤッタ大統領、
キルギスタンのジェーンベコフ大統領、ラオスのベンヤン主席、モンゴルのバトトルガ大統領、
モザンビークのニュシ大統領、
ネパールのバンダリ大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領、ポルトガルのソウザ大統領、
セルビアのブチッチ大統領、スイスのマウラー大統領、タジキスタンのラフモン大統領、
ウズベキスタンのミルジャエフ大統領、UAEのムハンマド首相、オーストリアのクルツ首相、
カンボジアのフンセン首相、エチオピアのアビー首相、ギリシャのチプラス首相、
ハンガリーのオルバン首相、イタリアのコンテ首相、マレーシアのマハティール首相、
ミャンマーのスーチー国家顧問、パキスタンのカーン首相、
パプアニューギニアのオニール首相、シンガポールのリー首相、タイのプラユット首相、
ベトナムのグエン首相、インドネシアのカーラ副大統領、
それに国連のグテーレス事務総長とIMF(国際通貨基金)のラガルド専務理事である。
これらの錚々たるVIPたちが一堂に着席し、30分にわたって「習近平演説」に耳を傾けたのだった。

「習近平皇帝様」を尊敬している国家元首も、中にはいるかもしれないが、
おそらく大半は「自国の経済発展のため」と割り切って、聞いていたのだろう。

「一帯一路」というのは、ユーラシア大陸を中国からヨーロッパへ向かう陸路の「シルクロード経済ベルト」と、
海路で向かう「21世紀海上シルクロード」を、中国と当該諸国とでつなげようという習近平政権の広域経済圏構想である。
具体的には、政策・インフラ・貿易・資金・民心の5つを、ユーラシア大陸に浸透させることを指針としているが、
いまではユーラシア大陸とは無関係のアフリカや南米なども含めている。
「一帯一路」のこの5年半あまりの歩みは、以下の通りだ。中国政府が作成した資料からの抜粋であることを付記しておく。

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◎ 「授業中はいつもうわの空だった」発達障害の特性を活かし、国民的漫画家になった2人とは?
新書『天才と発達障害』より - 岩波 明 (2019.5.7、BLOGOS)
https://blogos.com/article/375286/

《一部省略しています》
言葉が遅く小学校は1年遅れで入学した男性の漫画家
 男性の漫画家においても、発達障害の特性を持つ人は少なくない。
 水木しげる(1922~2015)は代表作『ゲゲゲの鬼太郎』によって国民的な漫画家になり、
わが国漫画界のレジェンドといってもよい人物である。
妻の回想録『ゲゲゲの女房』を原作としたNHKの朝ドラも放映された。

水木の故郷である鳥取県では米子空港にも鬼太郎の名前がつけられ、
空港の売店には数多くの鬼太郎グッズが並べられている。

 水木は大阪で出生し、鳥取県境港市で育った。
水木は、変わった子供だった。
幼児期に言葉の遅れがあり周囲からは知的障害者かもと思われて、小学校は1年遅れで入学した。

 学校では好き放題をしていた。いつも朝寝坊をして毎日のように遅刻した。
授業中も寝ていて勉強はせず、ケンカばかりしていた。
仲間の間ではガキ大将的な存在で、隣町のグループとの戦争ごっこに明け暮れた。

 子供の頃の水木は、ものを集めるのが好きだった。
昆虫採集に加えて、海岸の漂着物、藻や石などをたくさん集めた。
新聞の題字集めに凝ったこともあった。1度夢中になると、飽きるまでやめられなかった。

幼少期からADHD的なおおらかさと集中力をもっていた水木しげる 
 また、水木は絵が好きだった。紙切れとエンピツかクレヨンがあれば、いつも絵を描いていた。
主に風景画を描いていたが、絵物語を描くこともあった。

高等小学校の頃には絵画の才能が認められ、1日中絵ばかり描いていたこともあった。
このようなADHD的なおおらかさと過剰な集中力が、水木の創造力の源泉だったのであろう。
 なお、水木の父親もユニークな人物だったようだ。

早稲田大学では勉強はせず、歌舞伎や映画に熱中し、
故郷の堺港に船を浮かべてドンチャン騒ぎをしたこともあった。
卒業後、商売を始めたが失敗し、大阪で会社員をしていたが、
勤務時間中に映画をみていたのが社長にバレてクビになる。

境港に帰って銀行に勤めたが、夜は芝居小屋を借りて映画の上映もしていたところ、
やがて銀行もクビになった。その後は保険会社に勤めてジャワ支店に海外出張したり、
米軍の通訳をしたりして暮らしていたという。

問題を起こしてばかり、さまざまな職業を転々とした
 高等小学校卒業後、水木は大阪で働きながら絵の勉強をした。
当初は印刷所の住み込みをしていたが、問題ばかり起こすため短期間でクビになり、版画店に転職した。
 転職先でも、水木は何をするかわからない危険人物として扱われ、版画の仕事はさせてもらえず、
仕事は使い走りの雑用ばかり。それでも水木の仕事ぶりは不良とみなされた。

 勤務中でも、水木は自分の興味のあることを優先した。
太鼓屋の店先で大きな木の筒に皮を張っているのを見かけると、自転車を止めてじっと観察してしまう。
そのため配達物が何時間も遅れてしまい、社長からは「使い物にならない」と言われてクビになってしまった。
その後も職を転々とした。

 1943年、水木は召集されて陸軍の兵士として戦時下のラバウル(パプアニューギニア、ニューブリテン島)に出征した。
空襲の中、水木は命の危険を感じることもなく、
爆弾が炸裂する光景をうっとりと眺めていたというエピソードが知られている。
だが、最終的には爆撃による負傷で左腕を失ってしまった。

 復員してからもさまざまな職を転々とした。
染物工場の絵付け、闇物資の買い付けや魚屋などをするが、どれも長続きはしなかった。
単純作業は苦手で、しゃべってばかりいて、よく怒られた。


 元来絵を描くことが好きだった水木は、26歳のときに一念発起し、美術学校に入学する。
当初は入学資格がないと断られたが、直談判して夜間部に入学を許可されたのだった。
だが、最終的には生活に困窮し、中退している。
 こうしてさまざまな紆余曲折を経た後、水木は紙芝居作家をへて、漫画家としてデビューした。
彼の描いた妖怪のキャラクターたちは、今でも多くの人に愛されている。
(岩波 明)


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